静岡県を地場に、住宅建設、不動産管理、家具・インテリアなど、住宅周りの事業で飛躍するイトーグループ。経営理念「良縁づくり」を軸に、お客様第一主義で時代の荒波に挑まんとしている。2018年7月には創立50周年を迎え、「イトーグループ50年史」を発刊したが、さらなるグループ力の強化を期し、2020年1月より新たにグループ報を創刊することとなった。イトーグループが貫く「良縁づくり」の源流は一体どこにあるのか。今回はその答えを探るべく、昭和から平成、そして令和へとグループが歩んできた歴史を紐解いていきたい。
大きな苦労を経て実感した「良縁づくり」の大切さ
現在グループ代表を務める伊藤健次は1949年2月、イトーグループ創業家に生まれた。伊藤家の祖である健次の祖父・茂平は中規模農家を営んでいたが、父・宗平が建築業に進出。兄・康平の代には土木業も営むようになり、木造建築とコンクリート製品製造を両軸として企業基盤を整えていった。
ハウスメーカーとして跳躍するため、康平が着目したのが、松下幸之助の率いるナショナル住宅建材株式会社だ。「代理店との共存共栄」を標榜する彼らと組み、産声を上げたのが、伊藤建設株式会社である。「イトーグループ50年史」掲載の写真にも、松下幸之助その人に挨拶をする康平の姿がはっきりと写し出されている。
こうして大きなブランド力を得たことにより、同社は一気に躍進への糸口を掴んだ。従業員の雇用も拡大する中、入社してきたのが健次である。今でこそグループ代表として社を牽引する彼だが、当時はまだ二十歳にも満たない青年であった。
そんな彼が入社後に言い渡されたのが、単身での沼津行きである。任務は新拠点の立ち上げ。しかし、知名度も信用も無い中、金を借りることもできず、赴任当初は車中泊をしながら営業を行った。健次は当時を振り返って、次のように語る。「沼津時代は本当に辛かった。自殺すら考えたことがあります。それでも、いつも支えてくれた妻や、仕事を依頼してくださったお客様のお陰で、何とか沼津支店を立ち上げることができました。この経験があったからこそ、現在グループ理念となっている『良縁づくり』の大切さを心から実感することができたのです」。
こうした健次の手腕もあり、伊藤建設は1974年、念願であった浜松進出を実現した。同地には既に「伊藤建設」を名乗る会社が複数あったことから、「第一の(一番の)伊藤建設になる!」という思いを込めて、1975年に商号を「第一伊藤建設」に変更。同社にとって、新たな時代の幕開けであった。
建設業は地域密着サービス
こうした中で第一伊藤建設は、ナショナル住宅建材が全国に展開した販売会社制度を受け、ナショナル住宅部門を分離して静岡ナショナル住宅株式会社を設立した。1979年のことである。
このように大手メーカーと協業会社を設立する場合、大手メーカー側が多くの資本を有して主導権を握るのが一般的だ。しかし第一伊藤建設は、48対52という自社有利の資本比率を提案。そこには、地域密着への強い思いがあった。健次はその時の心境をこう語る。
「私たちからすれば、この協業会社は『ナショナルの会社』ではありませんでした。建設業は地域密着サービスなのです。地域に育てられて、地域のために経営してこそ上手くいく」。
建築という仕事は、「建物が完成すれば終わり」というわけにはいかない。家が一軒でもあれば、安易に撤退することは許されないのだ。それはすなわち、100年、200年と永続していく企業を作っていかなければならないということでもある。
イトーグループが地域に密着するのもそのためだ。首都圏など人口の多い地域に進出すれば、契約は比較的容易に取れるかもしれない。しかし、建てた住宅に対して責任がある以上、イトーグループでは「ビッグよりもストロング」を掲げ、理念無き規模の拡大ではなく、地場産業ならではの強い組織づくりに邁進する。
ここでやはり重要となるのが、グループ理念「良縁づくり」である。家を建てるというのは、人生における一大イベントだ。信頼の置ける会社に委ねたいと思うのは当然である。その中でイトーグループが掲げるポリシーについて、健次は次のように語る。
「私たちは嘘をつきません。真面目で正直にお客様と向き合い、決して逃げたりはしません。だから信用してください。いつもこのように説いています。そしてそれが、良縁を作ることに繋がるのです」。
イトーグループは地域に密着し、そこに住んでいる方々の紹介を通して成長してきた。その事実が、彼らを謙虚にさせるのだろう。
若い力が新時代を切り拓く
2000年以来、健次はグループ代表としてイトーグループを牽引してきた。まだまだ現役だが、「会社の未来を作っていくのは若い力」とも説く。そして、新時代を切り拓いていく旗手として、兄・康平の息子にあたり、現在第一伊藤建設の社長を務める卓見に期待を寄せる。
この卓見も、伊藤家のお家芸と言うべき、獅子が我が子を千尋の谷に突き落とすかのような試練を乗り越えてきた経歴の持ち主だ。
1986年に社会人となった卓見は、父・康平より呼び出され、突如として「明日から土建屋をやれ」と告げられた。大学時代から真面目に貯めてきた50万円のうち、30万円で中古トラックを購入させられ、たった一人での起業である。
7年後、卓見は土木業全般を難なくこなせるまでに成長。当時を振り返り、卓見は「とても大変でしたが、周囲の方々から指導を受けられる環境を得られたのは実に幸せでした。『縁』の大切さも実感しましたね」と語る。
康平は元々伊藤家が生業としていた農業から建設業へと至る道を切り拓き、度重なる危機に見舞われながら、イトーグループ繁栄の礎を築いた。健次は沼津支店の立ち上げで死ぬ思いをした後、見事にグループの総帥として花開いた。卓見もその後を継ぐに相応しい経験を積み、「縁づくり」の重要性を肌身で学んできたと言える。
グループ力の強化が急務
100年続く企業に向けて、イトーグループが意識するのはグループ力の強化だ。グループが変わらなければ今の変化に対応できない。グループが一丸となって変化に対応していく必要がある。グループの結束には各社の自我を抑える勇気も求められる。グループ内の相乗効果を上手く引き出していくためには、相互理解が重要だ。「イトーグループ50年史」の発刊も、今回のグループ報創刊も、ひとえにそれを意図してのことである。
健次と卓見はこうした取り組みの意義について、異口同音に述べる。
「この50年史は私たちのバイブルです。イトーグループはなぜ存在しているのか。どのように地域と向き合わなければならないのか。どのような歴史があり、どのような考えで、どこを目指しているのか。全てがここに書いてある」。
イトーグループでは、思いの共有を図り、お互いの仕事を理解し、リスクを減らす努力をするために毎月グループ会議を開いている。各社の幹部は、グループの幹部である。ただ、その場には参加できない社員も多い。そうした社員にも理念について深く理解してもらい、同じグループ内で奮闘している仲間がいることを知らせる手段として、グループ報の創刊も決めた。
「グループ力の強化」と言うと、「グループに依存しやすくなる」と考える向きもあるだろう。しかし、イトーグループは元より、第一伊藤建設を中心とするグループ企業による独立採算制度を取り、経営の自主性を重んずる社風がある。卓見も「会社は社員のものなので、自主的な経営をしてほしい。私たちはその手助けをする」と会社のスタンスについて語る。
そんな中、今回のグループ力強化で目指すのは、方向性のすり合わせだ。グループ企業全体のベクトルにさらなる統一感を出し、総合力を発揮していこうというわけである。「強い会社というのは、どこから揺れても潰れない仕組みを持っているものだ」とは健次の言葉だが、イトーグループは相乗効果により、時代の荒波に立ち向かう。
さらなる良縁づくりへ邁進
イトーグループの「良縁づくり」は、様々なところに広がっている。
例えば、社員による「地域への御用聞き」。これは、OB顧客を中心に、毎日20軒を回り、ヒアリングシートにまとめるというものだ。ルールは一つ。
「決してものを販売してはならない。サービスやイベントの紹介に留め、ただひたすら地域の皆様の声に耳を傾ける」。
訪問を繰り返すうち、結果的に工事の受注や家電量販店へのブース出店といった話にも繋がっている。
年に一度のパーティーでは、1年間の御礼の意味を込めて、お世話になった人々を招待して感謝を告げる。また、地域貢献としてのCSR支出も年間3,000万円と少なくない。この資金は、サッカー教室、マラソン大会、絵画の展覧会、コンサートといった行事に使われている。
「良縁づくり」を大切にし、地域密着の企業として発展を遂げているイトーグループ。今回、本紙面にて掲載したエピソードの多くは、「イトーグループ50年史」に写真付きで掲載されている。グループの歴史に触れ、全社で思いを共有するためにも、是非ご覧いただきたい。
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