株式会社環境システムの代表取締役を務める早川和弘。1976年(昭和51年)に第一伊藤建設株式会社へ新卒社員として入社後、工務担当者として勤務していたが、1979年(昭和54年)に株式会社パナホーム静岡(当時の静岡ナショナル住宅)へ転籍し、60歳の定年まで勤めた。長きにわたって会社を支えてきた早川の経験と苦悩、そして今後の展望を聞いた。
渋々だった異動が転機に
パナホーム静岡への転籍当時は、本社で営業見積や部材の発注管理を担当し、その後、東部工事センターの所長を務めた。「いずれは営業の仕事がしてみたい」と発した言葉がきっかけとなり、3か月後には富士営業所の所長に就任が決まった。そして3年ほどが経ち、今度は静岡営業所への異動通達が出た。富士営業所での仕事にようやく慣れてきた頃だったため、「もう少しここで経験を積みたい」と申し出たが、その願いは叶わず。しかし、この異動が早川にとって転機となったのだった。「今振り返ってみれば、静岡で勤めた30年間は貴重でした」。1992年(平成4年)、静岡営業所の所長に就任して4年ほどが経った頃、静岡市内にある4つの営業所が集められ中部営業部が発足、その部長に抜擢されたのだ。業績は右肩上がりの時代、当時早川は34歳だった。
課題と向き合った日々
営業部長になると、今まで見えていなかった課題が見えてきた。20〜30代が中心の部下との衝突を避けようと、上司が部下に遠慮している部分があったのだ。その遠慮が、気の緩みにつながっていた。取引先からは、「パナホームさんは仲が良いですね」といわれることが多かったが、「甘えがある」「他はもっと厳しくやっている」という指摘にも捉えられた。「これはまずい」。危機感を覚えた早川は、このままでは社会の変化から取り残され、お客様の要望に対応できなくなると感じ、現状を変えていく決意をした。まずは、責任者が遅刻をすれば、部下に示しがつかないと考え、始業時刻の30分前には業務をスタートできるよう準備した。「何事にもまずは自分から」という姿勢で取り組み、小さなことから変えていった結果、徐々に部の体制は整っていった。営業部長に抜擢されてから、約3年の月日が流れていた。
苦悩の傍ら、得た財産
変化には、部下からの反発も伴った。厳しく指導する早川に対し、「偉くなったらそんなことをいうのか」と、距離が離れていった社員もいたという。飲み会の誘いも減っていった。
「人を使うは苦を使うなり」。入社時に上司が口にしていたことわざが、ふと頭をよぎる。自分の未熟さを自覚しつつ、置かれている立場として割り切るしかないと思った。一方で、仕事を通じて知り合った人との交流は増え、縁が広がっていったという。業績が厳しい時には、周囲からの紹介を受けて乗り切った。縁が縁を呼び、紹介で建てた家は30件を超える。定年を迎えるまで中部営業部の責任者を務めた早川にとって、静岡での出会いと経験は、人生を色濃く彩る財産だ。
「人こそ全て」
前代表より、環境システムの代表を引き継いでほしいと依頼があっ
たのは、今年の4月末のことであった。迷いはあったが、イトーグループでずっと仕事をしてきた誠意として承諾し、5月に代表取締役に就任した。商品としての物を売る会社ではなく、グループの中で施工部門を担当する会社の代表となり、「人が財産であり全て」と実感しているという。
「現場の知識や技術を習得するのに5年はかかるこの環境で、前代表は新卒社員を4人採用しました。彼らの努力と先輩社員の指導のおかげで、現在、現場で活躍中です。前代表の先を見据えた採用と教育に感謝しています」。
会社の価値を高めるために
今後の目標は、環境システムの存在価値をイトーグループ内で高めていくことだ。そのために、現場での安全作業の徹底はもちろん、社員の資格取得を進めることでプロ集団を目指すこと。そして、環境システムだからこそできる新たな業務の模索と、グループ各社と連携し、紹介情報の提供など営業面でも貢献しいきたいと考える。それは、営業畑で歩んできた早川が案件獲得の苦労を知っているからに他ならない。
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